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生の欲求

最初に、この弁論は日本人を前提としている。そこはご理解いただきたい。

僕はたまに漠然と疑問に思うことがある。何故僕は生きているのか。毎回、答えはまとまらない。
しかし、生きる気力の根源は見つけることができた。欲求こそ自分の生きる力の根源だと。
欲求…人には食欲、性欲、睡眠欲といった生理的なものから、
出世欲、征服欲、知識欲などといった社会的なものまで多種多様の欲求がある。
特に社会的なものは、人によってあるものと無いものの差が激しい。
これらの欲求は、無限に湧いてくると僕は考える。
少なくとも、生理的欲求に抗うことはできない。
それらに抗うと、肉体的に死を迎えてしまう。
尽きることの無い欲求をいつまでも果たそうと思うから、死にたくない、生き続けたいと思う。
これより、欲求は生きる希望とも言い換えることができる。

しかし、この欲求が尽きてしまったらどうだろう。
正確に言えば、欲求をもつことができなくなってしまったらどうだろう。
その結果は、自ら命を絶つことになる。
日本では、年々自殺者が増加している。
リストラ続きで収入が得られなくなったことを苦に首をつる人。
死に至らなくとも、薬物乱用やいじめなどによる精神の衰弱・苦痛により、
残された生を確かめるために手首を切る人。
どれも明日への生きる希望、欲求を失ってしまった人々。
精神的に死をほぼ迎えてしまったために欲求を抱くことができなくなってしまった人々だ。
苦しみもがき、最悪行く果ては自らの命を絶つ。

人生はゲームのようにリセットは利かない。
死は即、スタート不可能なゲームオーバー、である。
それを自らの手で迎える必要も無かろう。
天国などという、死を迎えてもなお自分の欲求を果たせるといった、
人間の堕落した思想の偶像にすがり、輪廻などを夢見るのであろうか。

このように、自殺は他人、生の欲求が尽きてない人々から見たら「弱い行動」に映る。
しかし本人からしたら最も自分を「生かす道」なのかもしれない。
この社会に希望、欲求を尽かし、生きるという欲求すら失ってしまった人は、
今の自分からは想像、しかも自分好みの世界が広がっていると思いをはせることができる
未知なる死後の世界に生きる、という希望、死の欲求を抱いて死を選ぶのだろう。

生の欲求が尽きていない人から見れば死は終わりで、
尽きた人から見れば死は始まりなのだ。

別の角度から生の欲求について考えよう。
動物は種の存続という本能的な生の目的がある。
その目的を達成するために今を生きるということしか考えない。
人間はどうだろうか。
複雑化しすぎた社会構造、飽和した物資、多様にわたる思想、何よりやりたいこと、つまり欲求が多すぎる。
だから人間は、動物では絶対的な生の目標、欲求である種の存続が第一ではないため
絶対的な生の目標が定まらない。
生きる目標が見つからないから人々は迷走する。
絶対に達成しなければならないことが無い、責任がかかってないから
苦しくなったら簡単に命を絶つ。

そういうときこそ人を頼ろう。
人間は人の間に生きるもの。
周りの人と手をとることで生きることができるし、生きがいも見つかる。
周りの人はさらに、生きがいを見つける手伝いもしてくれるかもしれない。

最後に、繰り返すが死んだら今の自分は終わりだ。
そして、せっかく授かった命だ。
できるかぎりのことを尽くしてでも生きるという欲求をもつべきだ。
最後に心から笑って死ねたら最高だ。